はじめに
近年、さまざまな業界でデザイン思考(デザイン・シンキング、Design Thinking)と呼ばれる問題解決アプローチが注目を集めています。IT業界やシステム開発の現場でもデザイン思考を取り入れた取り組みが広がりを見せる中、今回はデザイン思考とは何かについて考察してみたいと思います。
デザイン思考とは
デザイン思考という言葉を聞くと、一部の人にとっては工業製品のデザイン、あるいはWebデザインなどに関する方法論を連想するかもしれません。しかし、デザイン思考におけるデザインというのは単にデザイナーやクリエイターなどの専門職向けのノウハウや手法を指しているわけではありません。このデザインという言葉には、問題を発見し、その解決に向けたアプローチをデザイン(設計)するという意味が含まれており、多くのビジネスパーソンにとってもさまざまな場面で役に立つ方法論と言えるのです。
特に経営やマーケティング、さらには新たな製品やサービスの開発などに携わる人々にとってはビジネス上の課題を捉え、より望ましい成果を創出するため、従来とは異なる発想や物ごとの捉え方に対するニーズがますます高まっています。こうした中、デザイン思考はイノベーションを創出するための思考様式を備えたフレームワークとして、ビジネスの現場でも高い関心が寄せられているのです。
デザイン思考の定義
デザイン思考の発祥地として有名なのがスタンフォード大学に2005年に創設されたハッソ・プラットナー・デザイン研究所(The Hasso Plattner Institute of Design)、通称d.schoolです。同研究所はERP世界大手のSAPの共同創業者であるハッソ・プラットナー氏による寄付金などをもとに設立され、世界的なデザインコンサルティング会社のIDEO(アイディオ)の創業者であるデビッド・ケリー(David Kelley)氏らが発起人を務めたことでも知られています。
言ってみれば、d.schoolとIDEOはデザイン思考の総本山とも言える存在ですが、IDEOはデザイン思考を次のように定義しています。
“Design thinking is a human-centered approach to innovation that draws from the designer’s toolkit to integrate the needs of people, the possibilities of technology, and the requirements for business success.”
—TIM BROWN, EXECUTIVE CHAIR OF IDEO
日本語抄訳:デザイン思考とはデザイナーの手法から導き出され、人々のニーズやテクノロジーの可能性、ビジネスの成功に不可欠な要素を統合することでイノベーションを実現する人間中心のアプローチです。
つまり、デザイン思考とは人間を中心としたイノベーションのための方法論というわけです。なお、この”人間を中心とした”という言葉をもう少し噛み砕くと、「モノやサービス、さらにそれらを支えるシステムやビジネスそのものを人を中心に設計する」という意味になります。より具体的には自社の製品やサービスありきで考える企業目線の発想を排し、消費者やユーザーなどの人々の心理に寄り添いながら潜在的なニーズを捉え、新たな製品やサービスの開発につなげていくアプローチを指しています。
デザイン思考が高い関心を集める背景
デザイン思考は前述のとおりd.schoolの誕生をきっかけに誕生したアプローチですが、なぜ近年になってビジネス界においても注目を集めるようになったのでしょうか。
その背景としては昨今のビジネスを取り巻く環境が大きく変化しつつあることが挙げられます。今回は具体的に以下の2点を取り上げながら説明したいと思います。
VUCAの時代を迎え、仮説検証型のアプローチが限界に
VUCAをテーマにした記事でも触れましたが、現代はVUCAの時代を迎えていると言われています。VUCAとはとは英語の以下の単語の頭文字を取った略語で、「先行きが不透明で、将来を予測することが困難な状態」を意味する用語です。
V(Volatility:変動性)
U(Uncertainty:不確実性)
C(Complexity:複雑性)
A(Ambiguity:曖昧性)
この結果、これまでのような市場調査を実施し、そこから導き出された仮説を検証して製品を開発するという仮説検証型のアプローチが通用しなくなっています。特にテクノロジーの進化や産業構造の転換、さらには働き方や消費行動の変化など消費者のニーズや行動様式が大きく様変わりする中、従来ビジネスの現場で常識とされてきたノウハウや方法論、事業モデルだけでは消費者や顧客をうまく捉えきれなくなってきました。
イノベーションに対するニーズが増大
こうした変化を受けて、あらゆる業界で従来の常識を打ち破るようなイノベーションに対するニーズが増大した結果、現在はさまざまな業界の企業がイノベーション創出に向けた取り組みを加速させています。わかりやすい例を挙げれば、企業のデジタルトランスフォーメーション(DX、デジタル変革)もこうした取り組みに該当しますが、デザイン思考もイノベーション創出を支える発想や物ごとの捉え方を変革するアプローチとして期待されていると言えるでしょう。
システム開発の現場でも活用が広がる
また、デザイン思考はシステム開発の現場でも活用が広がっています。この背景には従来のウォーターフォール型の開発モデルでは急速な市場環境の変化に柔軟に対応することが難しいという現実があります。もう少し具体的に説明しましょう。
ウォーターフォール型開発では後戻りや方向転換が難しい
ウォーターフォール型開発では通常、発注元企業が作成したRFP(提案依頼書)をもとに受託企業が詳細な要件定義書を作成します。その後、設計、実装、テストなどの開発ステージごとに品質管理を徹底しながら、完成に至るまで事前に決めた計画を粛々と実行していきます。ウォーターフォール型開発は綿密な計画の下、スケジュールの進捗管理や成果物の品質管理がしやすいという優れたメリットがあります。
その一方、何をどのように作るかをあらかじめきっちり決めてから開発に着手するため、途中で仕様や機能の変更、見直しが難しく、柔軟性に欠けるというデメリットが存在します。また、完成までに多くのプロセスや要員を必要とするため、開発期間も半年から数年単位と長くなることが一般的です。簡単に言えば、ウォーターフォール型開発は計画が動き出したらシステムが完成するまで立ち止まることができないため、その間に仮に市場やユーザーの嗜好などの外部環境が大きく変化した場合、後戻りや方向転換ができません。この結果、失敗が高くつくことにもなりかねないのです。
イノベーション創出には小さな失敗が不可欠
その一方、イノベーションを創出するには、従来にない発想や試行を積み重ねるプロセスが欠かせません。そのためには小さな失敗を許容することが必要となりますが、ウォーターフォール型開発ではこれがそもそも難しいため、より柔軟な開発体制が求められるケースでは最善の選択肢とは言えなくなってきているのです。
現在ではウォーターフォール型開発に代わる開発手法としてアジャイル開発やリーン開発などの新たな手法が広く知られていますが、デザイン思考のフレームワークも取り入れられ、デザインスプリントとなどして定着しつつあります。
デザインスプリントとは、デザイン思考とアジャイル開発のフレームワークであるスクラムの時間枠(タイムボックス)を指すスプリントを組み合わせた開発手法で、基本的な考え方や方法論はスクラムとほぼ同じと考えて差し支えありません。デザインスプリントは短い期間で最大の成果を出すために、5日間でプロトタイプと検証を高速で回す方法論ですが、詳細についてはあらためて別の機会に譲りたいと思います。
ただ、重要なポイントとしては、早い段階でプロトタイプを作成し、実際にユーザーからのフィードバックを得ることで「大きな失敗」を未然に防ぐことができる点です。仮にプロトタイプがユーザーから不評だったとしても「小さな失敗」で済むわけで、その後の軌道修正が柔軟にできることが強みと言えます。言わば、シビアなユーザー評価に向きあい、解決に向けて試行錯誤を続けることが成功への近道になるというアプローチです。
デザイン思考の5つのステップ
では、次に具体的にデザイン思考が提唱する問題解決に向けたアプローチをみていきましょう。d.schoolは、デザイン思考を実践するために必要なプロセスとして以下の5つのステップを提唱しています。
Step1:共感(EMPHATIZE)
繰り返しますが、デザイン思考は人間を中心としたイノベーションのための方法論なので、人間を理解するプロセスが欠かせません。具体的には人々がどんな理由で、どのように行動し、どのようなニーズを抱えて、世の中をどう捉えているかなどを理解するプロセスをデザイン思考では「共感」(EMPHATIZE)と呼びます。
また、共感するために必要な作業としては「観察する」、「関わる」、「見て聞く」があります。これは例えば、消費者やユーザーの日々の行動を観察したり、インタビューなどを通して彼らと関わることで、その行動の背景を探ったり、さらには「観察する」と「関わる」をうまく組み合わせることにより、より具体的な現場で彼らが考えていることや感じていることなどを形として引き出すプロセスが含まれます。
Step2:問題定義(DEFINE)
次に共感段階で得たさまざまな情報から関係性を見つけ出し、消費者やユーザーが本当は何を実現したいのか、彼らの潜在的な課題は何なのかなどのニーズを発見するプロセスが「問題定義」(DEFINE)です。よくデザイン思考のワークショップなどでは、ホワイトボードや壁にメモ書きの書かれた付箋や写真などを張り付け、メンバー全員で一緒に考えるシーンを見かけますが、問題定義においてはこのように収集した情報を洗い出した上で、意味づけを行います。
その目的は、人間の行動に潜むインサイトを発見することにあります。ここで言うインサイトには本人も気付いていない事実や認識、他人からは分からない潜在的な心の動きや感情などが含まれますが、デザイン思考ではこれらの中に革新的な解決策のヒントが隠されていると考えます。
Step3:創造(IDEATE)
問題定義段階で作成したいくつかの着眼点(Point of View)をもとに行うのが「創造」(IDEATE)です。このプロセスではアイデア創出に重点を置き、着眼点から得たコンセプトやアイデアの幅をさらに押し広げるために、ブレインストーミングなどを行います。ブレインストーミングでは正しいアイデアを見つけるためではなく、アイデアの可能性を最大化することが重要です。
このため、アイデア出しとアイデア評価をいったん切り分け、アイまずはアイデア出しに集中することで参加メンバーの想像力と創造性がうまく発揮できるようにすることが有効です。
Step4:プロトタイプ(PROTOTYPE)
創造段階でアイデアを出しきった後はそれぞれのアイデアを評価し、上位に選ばれたいくつかのアイデアを具現化する「プロトタイプ」(PROTOTYPE)に進みます。プロトタイプ、いわゆる試作品を作る目的は消費者やユーザーからより有益なフィードバックを引き出すことにあります。彼らに実際に目に見えるものを提示することで、より深層心理に迫る深い対話が可能になり、そこで新たな視点や課題などに気づくことができるのです。
なお、プロトタイプに関しては、ターゲットとなる人々と対話のきっかけになるものであることが重要です。このため、身近にある紙やテープをつかって簡単な工作物を作成したり、絵コンテのようなストーリーボードを描いたりしながら、彼らに見てもらう、触ってもらうことを何度か繰り返します。そのためには、彼らに何を試してもらいたいのかを明確に伝えた上で、対話を深めることが欠かせません。
Step5:テスト(TEST)
プロトタイプ段階では、試作品を実際に見たり触れたりしてもらった後に、そのフィードバックを得るために「テスト」(TEST)を実行します。この段階ではプロトタイプの使い勝手やユーザーとしてどのような結果が望ましいと考えているのかなどのフィードバックを聞き出し、検証を繰り返します。こうした取り組みを通じてプロトタイプの開発精度を高めながらユーザーをより深く理解することが可能になり、最終的にはより高品質な製品やサービスの開発が実現できるのです。
なお、テストを実行する際にはユーザーにプロトタイプを預け、彼らがどんな反応を見せるか観察することも有効です。例えば、開発側が予期しなかった使い方が確認された場合は、これまで捉えきれていなかった潜在的なニーズへのヒントが隠されている可能性もあります。また、複数のプロトタイプを比較してもらうことでユーザーが本質的に求めていることが浮き彫りになる場合もあります。
デザイン思考の代表事例
最後にデザイン思考がもたらした代表的な成功事例についてご紹介します。最もよく知られている事例としては、Apple(アップル)が開発したiPodが挙げられます。iPodはApple社内の開発者やデザインや心理学、人間工学などの外部専門家など35名がコラボレーションすることでわずか約11カ月で開発が行われたと言われています。
iPhoneなどのスマートフォンが今や当たり前になっている現在ではさほど驚きは感じないかもしれませんが、当時は今のようにサブスクリプション型の音楽ストリーミングサービスは一般的ではなかったため、外で好きな音楽を聴きたい場合、CDからデジタル音源をパソコンに転送した上で、デジタル音楽プレーヤーに移し替えるために選別するという作業が発生していました。
iPodの開発チームはこうしたユーザーが感じていた手間や無駄をデザイン思考に基づいたアプローチで発見し、超薄型のHDDドライブを搭載することにより「すべての曲をポケットに入れて持ち運ぶことができる」という当時では画期的な商品を完成させました。当時、Apple創業者のスティーブ・ジョブス(Steve Jobs)氏が製品発表会の場で披露した「1000曲をあなたのポケットに」というキャッチコピーはシンプルかつインパクトのあるメッセージとして話題を集めたことは記憶に新しいところです。
iPodの成功は競合他社の製品をユーザーが日々どのように利用し、どのように感じているのかを徹底的に観察することから生まれたと言われており、デザイン思考によって生み出されたイノベーションの代表例として挙げられます。
おわりに
今回はシステム開発の現場でも役に立つ方法論としてデザイン思考をご紹介しました。弊社SHIFT ASIAでも近年はウォーターフォール型開発だけでなく、アジャイル開発などの柔軟性の高いサービスにも注力しており、メンバー各自がさまざまなノウハウや方法論を日々吸収しながら、お客様の本質的な課題解決に向けて取り組んでいます。
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